ピエール・フルニエ

チェロ、編曲、トランスクリプション

1906 — 1986
ピエール・フルニエは、1906年にパリで生まれた。その叙情的な演奏、非の打ちどころのない芸術性、そして人柄が、気品と洗練と慎みあるエレガンスを湛えていたことから、生前に「チェロ界の貴族」と呼ばれ広く親しまれた。フランス陸軍の将軍を父に持つフルニエは、幼少時に母親からピアノを教わった。 9歳の時に患った小児麻痺で足が不自由になり、ピアノのペダルを思うように踏めなくなったフルニエは、チェロに転向し、意志堅固にチェロの習得に励んだ。13歳の若さでパリ国立高等音楽院への入学を許され、ポール・バズレールに師事し、後にアンドレ・エッキングの下でも学んだ 。 1923年、17歳の時に1等賞を得て、同院を卒業した。 フルニエは、ごく若い頃から途轍もない超絶技巧を誇り、よどみないボーイング (運弓法) で有名だった。彼が何よりも愛したのは室内楽で、著名なクレットリ弦楽四重奏団の一員として活動していたが、それだけで生計を立てることができず、 数年間、劇場やミュージック・ホール、野外ステージ、無声映画館で演奏して生活した。ソリストとしてのキャリアは1928年に始まり、4年のうちに国際舞台で最初の成功を収めた。その端緒は、1932年のアムステルダムとベルリンでの公演であり、1934年にはロンドンで、1935年にはバルセロナで演奏した。1937年、巨匠パブロ・カザルスの後継としてパリのエコール・ノルマル音楽院に迎えられ、1941年にはパリ国立高等音楽院のチェロのクラスを受け持った。 教師としてのフルニエは、生徒たちに流麗な音を求め、右肘を高く保つ奏法を強く勧めた。これは、右腕に関するヴァイオリンのテクニックが、チェロよりもかなり早い時期に発展させられていたことに由来する。ヴァイオリン奏者フリッツ・クライスラーを手本としたフルニエは、若い頃にこのテクニックを磨き、楽曲のリズムを上品かつ軽やかに奏でることができた。そして何よりもフルニエは、このテクニックによって、器楽が奏でる旋律線を人間の歌声の響きに極力近づける独特なレガート奏法を生み出した。フルニエの音色とフレージングをめぐる思考を常に決定付けていたのは、「歌うこと」であった。 フルニエの本格的なキャリアは戦後に始まった。1948年に初の米国ツアーを行い、大成功を収めた彼は、ソリストおよび室内楽奏者としての活動に専念するため、翌年にはパリ国立高等音楽院での職を辞さなくてはならなかった。1956年、フランス市民権を保持しながら家族とスイスに移住し、以後はスイスを拠点に晩年までツアーを続けた。また、多くのレコーディングを行い、晩年にはピアニストの息子ジャン・フォンダと共演を重ねた。1959年にはモスクワで初公演を行った。チェロ奏者のレパートリーとして定着している協奏曲の、ほぼ全てを演奏。1963年にフランスのレジオン・ドヌール勲章の会員となり、翌年に同勲章オフィシエを授けられた。 フルニエは、ロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで自身最後のリサイタルを行った。それから2年弱後の1986年、ジュネーヴで脳卒中のため80歳で逝去した。彼は60年以上にわたるキャリアの中で、ほぼ全ての一流オーケストラおよび指揮者と共演した。また彼の室内楽のパートナーのリストには、マルグリット・ロン、アルフレッド・コルトー、ヴィルヘルム・バックハウス、アルトゥール・ルービンシュタイン、ヴィルヘルム・ケンプ、フリードリヒ・グルダら伝説的なピアニストたちや、 ジャック・ティボー、ヘンリク・シェリング、アルテュール・グリュミオーらヴァイオリンの大家たちなど、20世紀演奏史を築いた錚々たる顔ぶれが並んでいる。現代音楽も好んだフルニエのために、マルティヌー、マルティノン、プーランクなど多くの現代作曲家が新作を書いた。 1988年、英国王立ノーザン音楽大学は亡きフルニエに敬意を表し、国際チェロ音楽祭を設立した。