モーリス・ラヴェル

モーリス・ラヴェル

作曲

1875 — 1937
1875年にフランス南西部シブールで生まれた。両親がともに音楽の愛好家で、息子が音楽の道に進むことを歓迎したという。1889年からパリ音楽院に在学して、フォーレやぺサールのもとで学んだ。1900年からローマ賞をとるために5度の応募を試みるが、大賞は取れず、5度目の挑戦では予選を通過することさえ叶わなかった。すでに《亡き王女のためのパヴァーヌ》や《水の戯れ》を発表し、その斬新さでその名を知られていたラヴェルの落選はスキャンダルとなり、パリ音楽院の院長デュポワが辞任に追い込まれるまでに発展した。 以後、「スペイン狂詩曲」(1908年) 、《夜のガスパール》(1908年) 、バレエ音楽《ダフニスとクロエ》(1912年) など、話題作を次々と発表。第一次世界大戦が勃発すると、運転手として任務にあたった。大戦中には最愛の母が死去し、これ以後創作意欲は極端に衰えることになる。 戦後、1928年にはアメリカに渡って演奏旅行を行う。このころから言語症に悩まされていたが、1932年にタクシー事故にあったのをきっかけに症状は益々悪化した。1933年のパリでのコンサートを最後に、療養生活に入る。病床では歌劇《ジャンヌ・ダルク》などを構想していたが、いずれも完成せずに終わった。 1937年パリで死去。ミヨー、プーランク、ストラヴィンスキーらが葬儀に立ち会った。