ロベルト・シューマン

ロベルト・シューマン

作曲

1810 — 1856
ロベルト・シューマンは真のロマン派であった。彼の作品の独創性は、感情的、構造的、哲学的な限界に挑戦するものであった。シューマンの父は出版や書籍の販売をしており、音楽よりも文学寄りの家庭環境で育った。シューマン自身も文章に長け、当初は執筆と音楽のどちらに専念するかで悩んだ。結果的に音楽を選びつつも鋭い評論家でもあったシューマンは音楽雑誌『新音楽時報』を創刊し、編集に携わった。その中で、ベルリオーズ、ショパン、そして後に若き日のブラームスの音楽を賞賛した。 亡き父の遺言に従い、ライプツィヒで法律を学んだシューマンであったが、やがて反抗し、天才ピアニストとして娘クララを育てていた著名な教育者フリードリヒ・ヴィークにピアノを師事するようになった。クララは、少女から少女へと成長するにつれ、シューマンと深い恋仲となるが、ヴィークはシューマンを放蕩者と見なしており、二人の結婚を想像するからに激怒した。その間、シューマンは作曲に専念しつつも、大酒を飲み、情事も重ね、精神的に不安定な状態になっていた。また、梅毒にかかり、第4指を強化するための器具を使っているうちに、手に取り返しのつかない傷を負ったと言われている。一方、梅毒の治療中に水銀中毒を起こしたために精神が不安定になったという説もある。しかし、ヴィークによって強制的に引き離されたシューマンとクララは、音楽を通して交流していた。シューマンの作品には、音符を文字、モチーフを記号に見立てた音楽的暗号が多くある。「クララ」のモチーフやベートーヴェンの歌曲集《遥かなる恋人に》の引用はその一例である。また、クララと音楽においてつながり合おうとするかのように、クララの自作曲も多く引用した。やがて若い二人はヴィークを法廷に訴え結婚の権利を獲得し、1840年のクララの誕生日に夫婦となった。 シューマンは、一つのジャンルに集中し、その可能性を尽くしてから次のジャンルに移るという傾向があった。自身がピアニストであった彼は、そのキャリアを通じて膨大な量のピアノ曲を書き、1840年の1年間はほとんど歌曲のみに専念した。歌曲集《女の愛と生涯》では、ヒロインが恋愛、結婚、母性、未亡人を経験するが、それはあまりにも予言的なビジョンであった。この曲は、シューマン自身のモチーフを再び用いていることに加え、彼が敬愛していたシューベルトの音楽に基づいてもいる。シューベルトの死後まもなく、シューマンはシューベルトの弟フェルディナンドを訪ね、そこでさまざまな音楽を発掘した。その中には交響曲9番《ザ・グレート》の手稿譜も含まれていた。シューマンが友人の作曲家フェリックス・メンデルスゾーンに指揮をするよう説得し、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでの演奏が実現するまで、一度も演奏されたことのなかった作品である。次にシューマンは室内楽に目を向け、1841年から1842年にかけて、3つの弦楽四重奏曲、ピアノ四重奏曲1曲、ピアノ五重奏曲1曲を作曲した。やがて7人の子供を育てるための経済的な必要性から、シューマンは合唱曲、オペラ《ゲノフェーファ》や4つの交響曲など、より大型の作品に挑戦するようになった。 1853年、シューマン夫妻は、共通の友人で天才的な才能を持つ若いヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの紹介でヨハネス・ブラームスと出会い、夫妻はブラームスと彼の音楽に魅了された。ブラームスは二人に身を捧げるようになり、クララには猛烈な恋心を抱いた。その5ヵ月後、シューマンは神経衰弱に陥り、町のカーニバルの際、ライン川に身を投げて自殺を図った。その後彼は自身の希望でボン近郊のエンデニヒの精神病院に送られ、クララの面会も禁じられた。彼は残りの人生を精神病院で過ごし、天使が口述したものと信じて音楽を書き続けた。短い生涯であったが、シューマンの影響は数十年先まで及んだ。ブラームス、リスト、ワーグナー、エルガー、フォーレなどに与えた影響は計り知れず、19世紀の作曲家の中で今も最も愛され続けている一人である。