ヘンリク・ヴィエニャフスキ

作曲

1835 — 1880
1835年にポーランド(当時はロシア領)のルブリンで生まれる。ピアニストの母親に早くから音楽の手ほどきを受け、5歳からヴァイオリンのレッスンを受けた。8歳でパリ国立音楽院に入学し、13歳の時には、サンクトペテルブルクからカリフォルニアに至る演奏旅行に出かけている。弟のユゼフもピアニスト・作曲家として、当時最高の音楽家に数えられた。 1860年から1872年はサンクトペテルブルクで過ごし、ロシアのヴァイオリン教育に大きな影響を与える。精力的な演奏活動を続けながら、1875年からはブリュッセルの国立音楽院で教授も務めた。 手入れの行き届いた髭と深刻な顔立ちをトレードマークとする印象的な容姿の持ち主だったが、後年は肥満に悩まされた。燕尾服を着られなくなるほどになり、心臓病を発症。ロシアへの演奏旅行の最中 (1880年3月) に、モスクワで44歳の若さで客死する。 1935年には、彼の100回目の誕生日を記念して、ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールが創設された。同コンクールは、ヴァイオリンのためのそれとしては、最も重要なものに数えられる。 ヴィエニャフスキの作品は、自らが弾くために作曲されたものがほとんどである。オペラのメロディーやポーランドの民族音楽を基調としたサロン音楽や超絶技巧作品、《伝説曲》(1860年ごろ) 、2つのヴァイオリン協奏曲は、今日でもヴァイオリン奏者にとって欠かせないレパートリーとなっている。