1772年、チャールズ・バーニーはウィーンにおける教会音楽の豊かさに特に感銘を受けました。ほぼすべての教会と修道院で、器楽伴奏と歌唱を伴うミサが毎日行われていました。こうした音楽への取り組みは、当時も今も、ウィーンの音楽生活において不可欠な要素でした。フリードリヒ・ニコライも後に、日曜日や祝日には様々な時間にミサが捧げられ、多様な形態をとっていることに気づきました。こうした変化は、ヨーゼフ・ハイドンのようなフリーランスの音楽家たちに、教会での演奏を次々と引き受け、様々な場所で演奏する機会を与えました。ハイドンが培った比喩的な教会音楽の伝統は、17世紀にその起源を遡ります。
1600年頃、北イタリアの作曲家たちは、声楽パートとは独立して器楽パートを用い始めました。この革新はその後も発展を続け、アルプス山脈以北のカトリック諸国でも高く評価されました。ハイドンは、ヴィヴァルディのような巨匠たちによって形作られたこの伝統を、初期の作品に取り入れることができました。ハイドンは17歳頃、忙しい日曜日の朝のために作曲した「ミサ・ブレヴィス ヘ長調」を作曲しました。後期の作品には、アイゼンシュタットの聖ヨハネ・オブ・ゴッドのホスピタル修道会のために特別に作曲した「ミサ・サンクティ・ヨアニス・デ・デオ」などがあります。
ハイドンの初期と後期の宗教音楽の変化は、オーストリアの宗教音楽の変遷を反映しています。協奏的なミサ曲が従来の形式に取って代わりました。マリア・テレジアやその息子ヨーゼフ2世といった統治者による介入と改革は、礼拝における音楽の使われ方を形作りました。ハルモニーメッセなどの後期ミサ曲によって、オーストリアの教会音楽の時代は終わりを告げました。ハイドンの革新的な形式設計と作曲様式は、フンメル、ベートーヴェン、シューベルトといった作曲家に大きな影響を与えました。こうした変化にもかかわらず、ハイドンが教会音楽において果たした役割は揺るぎないものです。











