ポール・デュカス

ポール・デュカス

作曲

1865 — 1935
1865年にパリで生まれたデュカスは、優れたピアニストだった母親に、幼少のころからレッスンを受ける。16歳でパリ音楽院に入学した。ここでドビュッシーとの長きにわたる友情が始まる。1888年のローマ賞ではカンタータ《ヴェレダ》で二等を獲得したが、失望して音楽院を退学した。 その後従軍するが、除隊後再び音楽の道でキャリアをスタートする。序曲《ボリュークト》(1891年) でデビューを果たすと、唯一の交響曲 (1896年) を作曲。翌年には現在もっともよく知られる交響的スケルツォ《魔法使いの弟子》(1897年) を生み出した。その後も長大なピアノ・ソナタ(1901年) や歌劇《アリアーヌと青ひげ》(1907年) など重要な作品を発表。その作風はシェーンベルクやベルクに影響を与えた。 幅広い知識を生かして評論家としても活躍し、各誌に400を超える評論を執筆した。また、クープランやラモーらの作品の校訂も行った。 バレエ音楽《ラ・ペリ》(1912年) 以降は作曲から離れるが、1927年にはパリ音楽院作曲科の教授に就任。エコール・ノルマルでも教鞭をとる。卓越した教師として知られ、メシアンらを教えた。1935年パリで永眠。 極度の完璧主義者として知られるデュカスは、自らが認めない作品をすべて破棄していため、20曲足らずの作品しか残っていない。