ヴラディーミル・ホロヴィッツ

ヴラディーミル・ホロヴィッツ

ピアノ

1903 — 1989
1904年にウクライナのキーウ (キエフ) で生まれたホロヴィッツは、すでに20歳になる前にロシアで名を成していた。6歳の時に母親からピアノの手ほどきを受け、後にキエフ音楽院でウラディーミル・プカルスキー、セルゲイ・タルノフスキー、フェリックス・ブルーメンフェルトに師事した。この間に作曲家としても活動し、小品やピアノ編曲を書いている。ホロヴィッツの名声は、1925年にソ連を発ってドイツで演奏した頃から広まり始めた。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を弾いたハンブルク公演は特大の成功を収め、センセーショナルな新人として一躍注目され、すぐさまイギリスとフランスで演奏を行った。1928年にアメリカ・デビューを飾り、1939年にアメリカへ移住。1944年にアメリカ市民権を取得した。ホロウィッツは、あらゆるヴィルトゥオーゾ・ピアニストたちの頂点に立つ名手として知られるようになり、毎回の演奏会が空前の大イベントとなった。1953年、ホロヴィッツは、自身が登場するたびに起こる喧騒と距離を置き、公の舞台から去った。 しかしながら彼は、その後12年間レコーディングを行い、新たなレパートリーの研究に多くの時間を費やした。「我々の時代のリスト」または「限界なきヴィルトゥオーゾ」としてのホロヴィッツの名声は、彼の数多くの録音にも由来している。彼の演奏録音の幾つか――例えば1930年に録音されたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番やリストのロ短調ソナタ――は、歴史的な名演の域に達している。これらのレコーディングは、若きホロヴィッツが――音楽批評家たちの言葉を借りるなら――単に「草原から放たれた竜巻」として名を揚げただけでなく、極めて成熟した形式感覚を持つ音楽家であったことを私たちに伝えてくれる。彼の広範なディスコグラフィには、ショパン、シューマン、ラフマニノフのレコーディングが多数並んでいる。また彼は、スクリャービンとスカルラッティの音楽にも特別な関心を寄せた。しかし彼のレパートリーには、ウィーン古典派の作品も含まれている。ホロヴィッツの協奏曲の録音の中で最も広く知られているのは、1943年の義父アルトゥーロ・トスカニーニとの共演によるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番である。 1965年のカーネギー・ホールでの歴史的な復帰公演は、彼が公の場で行うことになる比較的に少数のリサイタルの初回に当たる。その大半は、日曜日の午後にカーネギー・ホールで開かれた。彼は1980年代に、米国外での短いツアーを開始することに同意した。 大抵のヨーロッパ人にとって、長年アメリカの伝説的なピアニストであり続けていたホロヴィッツは、1982年にロンドンで28年以上ぶりの演奏会を行った。そして1985年にはミラノとパリで、 30年ぶりとなるヨーロッパ大陸でのリサイタルを実現させた。 1985年には、1926年に国際的なキャリアを開始したハンブルクと再び関係を結び、ドイツ・グラモフォンが自身の新たなレコーディング・パートナーとなることを発表した。ソ連を離れてから61年後、ホロヴィッツはモスクワとレニングラードで歴史的なリサイタルを行い、その後も生涯現役を貫いた。81歳でスタジオ録音にも復帰。 1989年にニューヨークで心臓発作のため86歳で亡くなる10日前にも、CDのレコーディングを行っていた。