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レオシュ・ヤナーチェク

レオシュ・ヤナーチェク

作曲

1854 — 1928
1854年モラヴィアに生まれ、父に音楽の手ほどきを受ける。11歳の時、ブルノにある修道院の聖歌隊員となった。 プラハのオルガン学校に通ったのち、ライプツィヒとウィーンの音楽院でも学ぶ。1881年にブルノに戻り、オルガン学校を設立した。このころから自身の作品の中で民族音楽を直接用い始め、中でもモラヴィアの民謡に強い関心を抱いていた。歌劇《イェヌーファ》ではモラヴィアの村が舞台となっており、台本もモラヴィア方言で書かれている。ヤナーチェクの代表作であるこの歌劇は1904年にブルノで上演されるが、この時はこの地で高い評価を得るにとどまった。1916年やっとプラハでの上演が実現すると大成功をおさめ、続いてドイツやオーストリアなどでも上演された。 《イェヌーファ》成功以後、ヤナーチェクは精力的に作曲し、熱烈な恋心を抱いたカミラ・シュテスロヴァーとの出会いもそれに追い打ちをかけた。管弦楽曲「シンフォニエッタ」(1926年) 、歌劇《カーチャ・カバノヴァ》(1912年) 、《利口な女狐》(1923年) などが次々と生み出された。1920年にはプラハ音楽院の教員となり、5年間作曲を教えるが、1928年に肺炎で死去した。 存命中はチェコ国内の活動に終始し国際的に認められることはなかったが、20世紀になると指揮者チャールズ・マッケラスが《カーチャ・カバノヴァ》をイギリスで上演したのをきっかけに、ヤナーチェクの作品はチェコ以外でも多く演奏されるようになった。