アントン・ブルックナー

アントン・ブルックナー

作曲

1824 — 1896
ブルックナーは、オーストリア・リンツ近郊のアンスフェルデンで、1824年9月4日、学校長兼オルガン奏者を父として生まれた。1837年の父の死後、聖フローリアン修道院の聖歌隊に入団。リンツで教員養成所に通った後、1955年からはリンツ大聖堂のオルガニストとなった。その傍ら作曲を熱心に学び、ジーモン・ゼヒターやオットー・キッツラーに和声法から管弦楽法に至るレッスンを受けた。キッツラーの影響でワーグナーに傾倒するようになり、生涯に何度もバイロイトを訪れている。 1868年には、ウィーン国立音楽院の教授に就任し、通奏低音やオルガンを教えようになる。1876年には、第1回バイロイト音楽祭で《ニーベルングの指環》の初演を聴き、それをきっかけとして交響曲第1番から第5番を大幅に改訂した。1877年の交響曲第3番の初演は、曲の長大さゆえに大半の聴衆が途中で退出してしまったが、最後まで聴いていたわずかな人々からは熱狂的に迎えられた。その中には、青年時代のマーラーも混じっていたという。 1880年代に入ると、交響曲作曲家としての名声が徐々に定着。「テ・デウム」と交響曲第7番は特に成功し、一気にその名を知らしめることになった。もっとも懐疑的な性格だったブルックナー自身は、賞賛を素直に受け入れず、作品の改訂に勤しんだ。それゆえ彼の作品には、大抵複数のヴァージョンが存在する。 晩年、死の病に侵されていたブルックナーは、オーストリア皇帝からベルヴェデーレ宮殿内の平屋建ての住居を賜与され、死の日までそこに住んだ。そして1896年10月11日、朝には交響曲第9番第4楽章の作曲を行っていたが、午後に72歳で死去した。