カミーユ・サン=サーンス

カミーユ・サン=サーンス

作曲

1835 — 1921
天才少年、名ピアニスト、そして優れた旅行作家であった多作なフランスの作曲家、カミーユ・サン=サーンスは、ロマン派の創造性が高まった時代に古典主義の精神を体現するようになった。しかし、彼の音楽の優雅さと形式は、その魅力である止めどない活力と自発性に決して負けることはない。サン=サーンスは、出生地がノルマンディー地方であることを誇りとしていたが、彼の父親は彼が生まれる前にパリに移住しており、カミーユも徹底したパリっ子として育てられた。4歳までに自ら作曲した曲を発表し、5歳でベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのピアノ・パートを演奏し、10歳までにパリのサル・プレイエルでの伝説的なコンサートで協奏曲2曲とソロ作品数曲を演奏するほどの腕前となった。その後、パリ音楽院で学び、作曲活動と並行してソロピアニストとしてのキャリアを積んだ。さらにパリの名門教会でオルガニストを務め、優れた即興演奏の才能を開花させた。 1860年代、サン=サーンスは、古楽への関心の強かったパリ音楽院ではなく、ニデルメイエール音楽学校で教鞭をとった。当時ガブリエル・フォーレやアンドレ・メサジェといった作曲家がサン=サーンスの生徒として学んでいる。生涯を通じて科学分野を中心にさまざまな分野に対する知的好奇心の強かったサン=サーンスはアルジェリアを頻繁に訪れるなど、多くの冒険旅行をし、幅広いテーマでの執筆を行う傍ら、パリの音楽シーンで精力的に活動した。1871年は普仏戦争翌年であり、パリにおいてはドイツ文化が台頭し、オペラへの熱狂が高まっていた。そんな中、サン=サーンスは器楽の振興を目的とした「国民音楽協会」を設立し、その推進役を担った。作曲家としては、ワーグナー、ドビュッシーと対立したが、フォーレ、モーリス・ラヴェル、そしてその後に続くプーランクの世代の作曲家たちからも尊敬を集めた。 サン=サーンスは、当時最も偉大な音楽家の一人であった。彼の作曲は、なじみの楽器にも思いがけない色彩を見出し、標準的音楽形式を独創的な方法で扱うなど、俊敏な頭脳の結晶である。その資質が最もよく表れているのが5曲のピアノ協奏曲であり、いずれにおいてもサン=サーンス自身の軽快な演奏を披露した。国民音楽協会設立後さらに半世紀を生きたサン=サーンスは、弟子のフォーレを中心とするフランス室内楽の大発展を見届けた。サン=サーンスはヴァイオリンやチェロのためのソナタ、トランペット独奏の七重奏曲などにより、室内楽に多大な貢献を果たした他、晩年は木管楽器ソナタを作曲。楽器の持ち味を理解した上でのコンパクトな形式と集中した表現による、彼の最高傑作のひとつである。