ベドルジーハ・スメタナ

ベドルジーハ・スメタナ

作曲、カデンツァ

1824 — 1884
スメタナは1824年に生まれ、幼いころよりピアノと作曲を学び、始めはピアニストとしての活動を試みた。しかしプラハでは目立った成功に恵まれず、1856年にスウェーデンへと移住。1861年まで指揮者、ピアニスト、そして教師として活動する。このころ作曲家としても、2つの交響詩など大規模な作品を生み出した。その後プラハへと戻り、チェコ音楽を本格的に模索し始める。 1866年、プラハに仮劇場の建設が計画され、それを機に歌劇を熱心に作曲し始める。《ボヘミアのブランデンブルク人》(1862年)、《売られた花嫁》(1863年)、《ダリボル》(1867年) と数年の間に立て続けに同劇場で初演が行われた。その後念願かなって仮劇場の指揮者となり、国民劇場の礎を築いたが、スメタナの就任には賛否が分かれ、長い間賛成派と反対派で対立が続くこととなった。1874年に5番目の歌劇《二人のやもめ》を書き上げたのち、耳が聞こえづらくなると、演奏家としての活動からは身を引き、作曲家としての活動に専念するようになる。その後連作交響詩《わが祖国》(1874年~79年)、弦楽四重奏曲第1番ホ短調《わが生涯より》(1876年)など著名な楽曲が書かれた。国民劇場のオープニングのため先延ばしにされていた歌劇《リブジェ》の初演が成功したことも重なり、ようやくチェコ国民楽派を代表する音楽家と認知されるに至った。 晩年のスメタナは精神状態が悪化し、精神病院に入院させられる。結局そのままこの病院で生涯を終えた。