コンテンツ一覧に移動する
リヒャルト・ワーグナー

リヒャルト・ワーグナー

作曲

1813 — 1883
リヒャルト・ワーグナーは、19世紀を代表する文化人であった。その作品はヨーロッパ中に衝撃を与え、そのオペラは人間の本質に対する深い洞察を表現し、哲学、政治、精神医学など様々な分野に影響を与えた。カリスマ的な存在でありながら、しばしば気まぐれな振る舞いを見せたワーグナーは、音楽史において最も物議を醸し、影響力を持った作曲家の一人であり、現在もそうあり続けている。 演劇に熱心な家庭に生まれたワーグナーは、ベートーヴェンの音楽に限りない情熱を傾ける活発な子供だった。歌姫ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=デヴリエントの歌唱を聴いたことがきっかけで、オペラ作曲家を志すようになった。地方劇場で指揮者としての経験を積み、女優と結婚。ワーグナーの最初のオペラ《妖精》と《恋愛禁制》はこの時期に生まれた。ワーグナーはパリ・オペラ座向けの作曲を目指しパリに向かったが、計画は失敗に終わり、やがて編曲や音楽雑誌への寄稿などで生計を立てながら、貧しい生活を送るようになった。彼のフランスやフランス式のあり方に対する反感は、このときの体験からきている。 1842年、彼はドイツに戻り、ドレスデンにて、数ヶ月のうちに2つのオペラを制作した。1作目の《リエンツィ》は、フランスの伝統にのっとった壮大なオペラである。この作品は、ワーグナーのオペラの中で初めて追求した愛による救済というテーマに、彼は以後、生涯にわたって執着することになる。その後まもなくドレスデンのカペルマイスターに任命されたワーグナーは、ドレスデンの音楽的地位向上のため精力的に活動した。エルサレム入城の日には、彼の芸術精神に最も即した作品であるベートーヴェンの交響曲第9番を演奏するようになった。そして1845年には、それまでで最も意欲的なオペラ《タンホイザー》を上演した。 1849年、ザクセン地方で革命が起こり、ワーグナーはドレスデンでバリケードを築いて反乱に参加した結果、スイスに亡命することになった。ワーグナーの不在中、リストの指揮によりワイマールで初演された《ローエングリン》の制作を、ワーグナーは書簡のやり取りによって監督していた。ワーグナーは、亡命後数年の間に、「オペラとドラマ」(1850年-1851年) をはじめとする長大な極論を書き、中心であるドラマを引き立てるためのみに音楽、衣装、照明その他関連芸術が存在するという新たなオペラを提唱している。この理論に基づき、ワーグナーは4つのオペラからなる、彼の音楽家人生の中で最も野心的な作品、《ニーベルングの指環》に着手した。 ワーグナーの13のオペラのうち最後の10作品は、世界で最も権威ある作品であり続けている。ワーグナーが当時の和声世界の境界を広げ、前例のない豊かで複雑な作品を作り上げることでもたらした発展は、次の世紀の基盤となった。晩年には伝説のバイロイト祝祭ホールを設計し、最適な条件下での作品上演を可能にし、亡くなる頃には既に、彼はヨーロッパ文化の真の象徴となっていた。 ワーグナーの作品に関しては、その演劇、哲学的な内容よりも音楽を好む人々が常に存在する。ワーグナーのオペラには、序曲、前奏曲など、演奏会用の曲目としても定着している管弦楽の旋律がある。オペラという枠を越えて聴くと、表現力豊かなオーケストレーションが聴く者を圧倒しつつも、想像力豊かな美に溢れ、ワーグナーの音楽的才能がいかに強力であったかが感じられる。