ガエターノ・ドニゼッティ

ガエターノ・ドニゼッティ

作曲

1797 — 1848
1797年、ベルガモに生まれる。実家は貧しく、音楽とは無縁の環境だったが、慈善音楽院の教師・作曲家ヨハン・ジモン・マイールに、その才能を発見された。音楽の基礎を身に付けた後、マイールの計らいでボローニャで学ぶ機会を得る。1819年から1822年にかけて、約20作のオペラを完成。それらはローマ、ナポリ、ミラノで初演され、名前は徐々に知られるようになったが、長い下積み時代を強いられた。 1830年にミラノで初演された《アンナ・ボレーナ》で、ついにスター作曲家としての地位を確立する。この作品は、イタリアのみならず、英国やアメリカでもすぐに上演された。やがて《愛の妙薬》(1832年) 、《ルクレツィア・ボルジア》(1833年) 、《ランメルモールのルチア》(1835年)で、イタリア最大の作曲家としての名声をほしいままにした。 やがてパリにも招かれるようになり、1840年の《連隊の娘》では、フランス語のリブレットに作曲している。 その後も、イタリアとフランスを拠点に活動。《シャモニーのリンダ》(1842年) 、《ドン・パスクワ―レ》(1843年) は、この時期の代表作であり、実質ドニゼッティの最後の成功作となった。 1846年に健康状態が悪化し、引退。1848年に、ベルガモで死去した。《ランメルモールのルチア》や《愛の妙薬》は、今日でも広い人気を博している。