クラウディオ・モンテヴェルディ

クラウディオ・モンテヴェルディ

作曲

1567 — 1643
ルネサンス期の声楽ポリフォニーから初期バロック期への大きな変化の時代に生きたクラウディオ・モンテヴェルディ。彼はこの二つの様式を、時には同じ作品の中で対比させながら巧みに使い分け、あらゆる声楽のジャンルを見事に書き上げた。彼の典礼曲が前世紀の合唱の伝統の集大成であるのに対し、彼のオペラは叙情的かつ劇的な革新を体現するものであり、こうした作品はその後まもなくヨーロッパ全土を席巻することとなった。 宮廷音楽家であったモンテヴェルディは、舞曲や儀式用の曲を多く作曲したはずであるものの、現存する作品のほとんどは声楽曲である。クレモナ大聖堂の音楽監督、マルクトニオ・インジェグネリに師事し、作曲や声楽に加え、いくつかの楽器も学んだ。宮廷に仕える前に既に聖俗の声楽曲を数曲出版しており、最初の作品 "Sacrae cantiunculae" は1582年、彼がまだ15歳のときに出版されたものである。1590年か1591年、彼はマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷ヴィオラ奏者に任命される。 小さいながらも文化的に活発であったマントヴァの宮廷において、舞踏音楽の作曲家ジョヴァンニ・ガストルディや、マドリガルで有名な宮廷音楽監督ジャケス・デ・ヴェルトなど、多くの一流の音楽家と交流するようにったモンテヴェルディは間もなく従来の音楽形式を捨て、新たな、いわゆる "seconda pratica"(第二作法)のスタイルへと向かっていった。保守的な音楽理論家ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージから、不協和音の無秩序な使用その他の欠点を指摘されたモンテヴェルディだったが、テキストの意味をよりよく反映するための自由な作曲を主張し、1601年にマントヴァ公爵の音楽監督に任命された。 《マドリガーレ集》によりヨーロッパ中にその名を知られるようになったモンテヴェルディはその頃、舞台音楽にも目を向け始めた。バレエ音楽《ディアナとエンディミオンの恋》は現存しないものの、1607年に初演されたオペラ《オルフェオ》は、現存する最古のオペラとして現在でも定期的に上演されている。モンテヴェルディは、不協和音を使った重要な台詞の強調や、楽器の色彩幅の拡張により、効果的な状況描写に成功した。モンテヴェルディが10数曲書いたとされるオペラのほとんどは失われており、初演時に聴衆が涙したという《アリアンナの嘆き》で残っているのは主人公の嘆きを歌った "Lamento d'Arianna" のみである。手書きと印刷の両方により広まったこの作品を、モンテヴェルディは最終的に5声のマドリガルによる聖歌 "Pianto della Madonna" に改編した。 成功したとはいえマントヴァの地で過労と低賃金に悩み、過小評価を受けていると感じていたモンテヴェルディはローマ教皇庁に職を得ようとするが失敗する。しかしローマが逃した才能はヴェネツィアの利益となった。1613年、モンテヴェルディはサン・マルコ寺院の音楽監督に任命される。途中、ウィーンやワルシャワの宮廷からも声がかかったにもかかわらず、晩年まで30年にわたりその地位を維持した。1637年、ヴェネツィアに世界初の公共オペラハウスがオープンし、モンテヴェルディはオペラの作曲にも取り組んだ。古典神話ではなく史実を題材にした初めてのオペラである。その内 "Il ritorno d'Ulisse in patria sua" と "L'incoronazione di Poppea" の2曲のみは現存している。非道徳性で知られる《ポッペアの戴冠》は、21世紀になっても、作曲当時と変わることなく、その音楽と劇作で観客を魅了し続けている。