ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

作曲

1756 — 1791
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、作品が演奏される回数が多いのみならず、その存在の神話化、人間性の解釈が最も行われ、最も人気のある作曲家の一人である。オペラや交響曲、弦楽四重奏曲といった抽象的なジャンルを得意とし、35年の人生で600以上の作品を書いた。彼の予測不能、優柔不断で、究極的には明確性を持たないビジョンは、現代人の耳にも独特の痛快さと力強さをもって語りかけてくる。世俗性と高い理想主義、無責任さと鋭いビジネスセンス、品の悪さとひょうきんさ、憂鬱な内省が共存する彼の人間性は、複雑で落ち着きのないものであった。 父レオポルトは作曲家でヴァイオリン教師、姉マリア・アンナ(愛称ナンネル)は天才的ピアニストという音楽一家に育ったモーツァルトは揺りかごから出たばかりという頃からチェンバロのための作品を作曲した。12歳で作曲した荘厳ミサ曲はウィーンの宮廷で演奏され、これによりモーツァルトは高貴な教会音楽の様式を確固たるものとした。1770年、ミラノのカーニバルのために作曲したオペラ《ポントの王ミトリダーテ》も、モーツァルトが14歳にして当時のオペラ様式に精通していること証明するものであった。 1773年以降、モーツァルトはザルツブルクの教会音楽の典型である明るく賑やかな様式で、交響曲、5つのヴァイオリン協奏曲、ミサ用の小曲などを作曲した。1777年、フランスの名手ヴィクトワール・ジェナミーのために作曲したピアノ協奏曲第9番変ホ長調K271は、名人芸、生き生きとした個性、緻密な構成が融合した画期的な傑作であり、彼のすべての傑作協奏曲の根幹を成すものとなった。この年の秋、モーツァルトは当時オーケストラの街として有名であったマンハイムとパリを訪れる。マンハイムでは、16歳のソプラノ歌手アロイジア・ウェーバーと出会い、彼女の高音域を生かした華麗なコンサートアリアを作曲。4年後、彼女の妹コンスタンツェと結婚し、ウィーンへ戻った。 パリでは定職に就けず、母の死という悲劇も経験した。1779年ザルツブルグへ戻り、宮廷オルガニストとして送る苦難の生活に嫌気が差した頃、ミュンヘンから大作オペラの作曲依頼を受け、苦境を脱出することができた。そのときに書き上げられたのが《イドメネオ》である。モーツァルト初の本格的なオペラとなったこの作品は1781年初頭に初演され、ウィーンでの輝かしい成功の日々が発進した。ピアノを教え、作品を出版する日々。定期演奏会では作曲家兼演奏家としての自らをアピールすべく、そのために一連のピアノ協奏曲を作曲した。ハイドン四重奏曲、大衆の間における彼の最大の成功作となったトルコのハーレムオペラ《後宮からの誘拐》、オペラ脚本家ロレンツォ・ダ・ポンテとの3度の共作など、室内楽とオペラも彼のウィーン時代の重要部分を占めた。《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《コジ・ファン・トゥッテ》の3作は、喜歌劇を新たな次元へと高めた。 1787年の《ドン・ジョヴァンニ》初演以降は困難な時期が続いたが、モーツァルトの最後の年1791年は、《ティートの結婚》と《魔笛》というオペラ2作品に加え《レクイエム》と、大曲の作曲依頼が相次ぎ、彼の生涯でも特に生産的かつ有益な一年であった。モーツァルトの早世により《レクイエム》は未完成に終わったが、それでもその成熟した美しい音楽は愛され、ロマン派の想像力をかきたて、失われた音楽のエデンの園の象徴として理想化された。