リヒャルト・シュトラウス

リヒャルト・シュトラウス

作曲

1864 — 1949
リヒャルト・シュトラウスは、19世紀末から20世紀初頭の60年にわたりヨーロッパ音楽界を牽引してきた人物である。音楽一家に生まれ、早くから才能を認められられると同時に広く知らしめられた。父フランツ・シュトラウスはミュンヘン宮廷楽団の首席ホルン奏者で、ワーグナーのいくつかのオペラの初演でホルンセクションを率いていた。リヒャルト自身は、1880年代初頭にブラームスの音楽に出会ったことから音楽の道を意識的に歩み始めるようになり、20歳になる頃には既に作品が当時の名指揮者らによって演奏されるようになっていた。 自らも指揮を多くし、そのことから彼の人格が育まれていった。中でも決定的な体験となったのがワイマールでワーグナーのオペラ《トリスタンとイゾルデ》を初めて指揮したときのことである。その日を振り返り、1892年、作曲者の未亡人コジマに「人生で最も素晴らしい日だった」と書き送っている。シュトラウスは、ヨーロッパの前衛芸術の中心的な地位を獲得すると同時に、当時最も人気のある指揮者の一人となっていた。 作曲家として独立した彼は、ワーグナーの弟子で作曲家でヴァイオリニストであったアレクサンダー・リッターの教えに従い、交響詩のアイデアを追求し、35歳までに《ドン・ファン》《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》《死と変容》《ドン・キホーテ》などの傑作を次々と発表した。シュトラウスはその贅沢なオーケストレーションがしばしば風刺の対象となっていたが、彼の作品は後期ロマン派の作曲家の中で最も華麗である一方、最高に洗練されてもいた。彼の最も華やかな交響詩やオペラでさえも、親密な室内楽の効果を多く含んでいる。彼はまた、ソプラノ歌手である妻パウリーネ・デ・アーナと55年間連れ添ったこともあり、女声への理解も深かった。 20世紀に入ってからは、作曲の中心が交響曲からオペラに移り、40年以上にわたって《サロメ》《エレクトラ》《ばらの騎士》《ナクソス島のアリアドネ》《カプリッチョ》などの不朽の名作を生み出し続けた。また、バレエ音楽や多数の自由形式の器楽曲、合唱曲数曲、数多くの優れた歌曲も作曲した。23挺のソロ弦楽器のための哀愁漂う《メタモルフォーゼン》と、ソプラノとオーケストラのための《4つの最後の歌》は、第二次世界大戦でドイツが破壊される中で作曲された、彼の最後の大作である。