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ジュゼッペ・ヴェルディ

ジュゼッペ・ヴェルディ

作曲

1813 — 1901
ジュゼッペ・ヴェルディは、4歳になる前に教育を受け始めた。農民出身という印象があるが、野心的な中流階級の父親が、音楽のレッスンその他多くの機会を用意したことから大きな恩恵を受けた。7歳で父からスピネットを買い与えられ、9歳でロンコレ、サン・ミケーレ教会の専属オルガニストとなった。10歳でさらなる教育を受けるためブッセートに移り、1831年からは、商人として成功し熱心なアマチュア音楽家でもあったアントニオ・バレッツィの家に下宿し、バレッツィの娘マルゲリータに歌とピアノを教えた。バレッツィはヴェルディがミラノでさらなる音楽教育を受けられるよう支援した。その後1836年、ヴェルディは音楽教師としてブッセートに戻った。同年、マルゲリータと結婚し、2人の子供をもうけたが、いずれも幼いうちに亡くなっている。妻も間もなく亡くなり、ヴェルディは取り乱す。私生活が打ち砕かれ、仕事も悲しみのあまり手につかず、この頃からオペラの作曲に専念するようになった。 1839年、初のオペラ《オベルト、サン・ボニファチオ伯爵》がミラノで控え目ながらも一定の成功を収め、その後ヴェルディはスカラ座向けのオペラ3作の依頼を受けた。1作目の《一日だけの王様》は失敗に終わったが、続く《ナブッコ》はセンセーションを巻き起こし、次々と新たな依頼が舞い込むようになった。その後ヴェネチア、ミラノ、ローマ、ナポリ、フィレンツェ、トリエステ、パリ、ロンドンに赴き、演出を監修した。そしてオペラの楽譜に演出集を添えた自身の芸術遺産を管理するようになった。1847年、オペラ《イェルサレム》の演出監修でパリを訪れ、2年間生活を共にしたソプラノのジュゼッピーナ・ステッポーニは生涯の恋人なった。 1853年に《椿姫》が初演されるころには、ヴェルディはヨーロッパで最も上演回数の多いイタリア人オペラ作曲家となっており、自らの作品に多額の報酬と最高の歌手を求め、オペラの初演に最適な会場を選ぶことができた。ヴェルディは、早くからオペラ作品を発表してきたことで、常識にとらわれない独自のアプローチをとることができるようになった。規則を完全に捨て去ることはしなかったが、自身のビジョンを実現するために必要なものは変えた。特定の歌手の声質を念頭に置き、役柄に合わせた作曲を行った。また大半のオペラでは人気戯曲や小説を題材にし続けた。 しかし、1850年代後半になると劇場のための作曲に不満を持つようになる。作曲のペースが大きく鈍り、1858年から1861年までは全く作曲を行っていない。16年間で制作したオペラはわずか6曲である。1871年にかろうじて完成させた《アイーダ》も、元々は1869年に完成の予定で委嘱されたものである。1887年の《オテロ》までの16年間も一切新作オペラを書かなかった。1893年、80歳で書き上げた最後のオペラは見事な喜劇であり、初演も大評判であった。《ファルスタッフ》は、ヴェルディの最高傑作といわれるオペラで、オペラ界の長老としてのヴェルディの存在を改めて知らしめた。 生前も死後も、ヴェルディの人気と影響力は健在である。死後120年以上経った今でも、彼の作品は主要オペラ作品であり続けている。1901年の国葬では、イタリア全土から大勢の音楽家が集まり、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮で葬儀が執り行われた。彼の死をイタリア全国が悲しみ、何千人もの弔問客が《ナブッコ》の〈Va pensiero〉に合わせてミラノ市内を厳かに練り歩いた。これはイタリア史上最大の国民集会である。